column

dividualな私たち

文・写真=中野詩織

reframing
project

 「私もあなたもひとりじゃない」と聞くと、人々は支え合って暮らしているという馴染みのあるイメージが思い浮かぶかもしれませんが、ここでの「ひとりじゃない」は少しスケールが異なります。ワークショップ(reframing)の中盤、私たちは、四季や地理といった自然の様相を品質として映し出す『不均質なプロダクト』の可能性や魅力に着目していました。その中で、ワークショップで講演いただいた文化人類学者の竹村眞一先生から、自然と人間を対立関係で捉えている限り人の世界に閉じた見方になること、人の体には多様な微生物が存在していて、私たちの体もまた自然でありdividual(多数のものに分けられる)(注1) であるという示唆がありました。そこから、自然と人間、私を分けていたさまざまな境界線がぐにゃぐにゃと動き出し、溶け始めたのです。

注1
dividual
人の体の中にも微生物がいるように、人が排出したものが自然につながっていくように、人の世界はそれだけで完結することはない。単一ではない私たち。

 私はこのワークショップ(reframing)では、人々が環境問題に対して行動するためにどのような視点やはたらきかけが必要かを考えていました。また、ひとりの生活者として、毎回の体験で出会う視点と向き合い、それらが暮らしにどう溶け込むか考えていました。『dividualな私たち』のキーワードは、環境問題を考えるときの『環境』という大きくて捉えにくい目線を、私の体の中へ一気に引き寄せてくれたのです。人の体に無数の微生物がいる事実を前から知ってはいても、実感できていませんでした。私たちが体に取り込んだ後に出ていくものも、コンポストトイレ(注2)が間に入れば庭の畑の一部になり、私たちの中へまた還ってくることで、私の一部が外の世界と共有されます。求めて探しに行く森や川だけが自然ではなく、それはごく身近にもあることに気づき、自然の二文字が違って見えるようになりました。
 そうなると、dividualであるこの私は、外の世界と影響しあっていることに関心が向かい始めます。体にいる微生物たちを常に観察することもできなければ(できる世界がそのうちやってくるかもしれない)、ごみの行く末も知らないのに、私が出したものや目に見えないミクロの世界へ気持ちを向けることはできるのでしょうか。

 

近所のトタン屋根には草が茂る。私たちの目には見えないところから生命は始まり、境界が溶け出している。

注2
コンポストトイレ
微生物の生解で排泄物を処理する水を使わないトイレ。バイオトイレ。山小屋や仮設トイレなどで活用されている。(画像=東京藝術大学 中山英之研究室)
 

 私は自分が出しているごみと向き合い始めました。ベランダでコンポストを始めると、部屋のサッシを隔ててコンポストと暮らすため、様子が気になります。料理で出る食べ物の切れ端は、細かく刻めばよく分解してもらえるかなと、出すものと出し方に気持ちが向くようになります。段々深くなる土の色や匂いはミクロの世界からの応答で、捨ててそれっきりだった生ごみに延長線を引けたようで、ごみという境界をつくる言葉が似合わなくなりました。コンポストの中に出るかもしれないアブは、分解を促して堆肥づくりを助けてくれるそうで、害と決めこんでいた基準もぼやけてきます。生ごみが減ると今度はプラスチックごみの多さが目立って、モヤモヤします。海岸に埋まっているマイクロプラスチックも、私たちが出したものの一部です。その回収は途方もないけれど、適度に湿って温かい砂を掘り進めているとその感覚が楽しくなり、完全に取り切れなくても、この心地よい砂浜からプラスチックを少しでも減らしたい思いがじんわり湧いてきました。

 

ベランダコンポストのようす

 私も自然の一部という実感が出てくると、環境への影響は様々な要素の混ざり合いで、対処にはコレさえすれば大丈夫という全自動ボタンはないことがわかってきました。私の中で生まれたモヤモヤは、白黒つけて捨てずに、小脇に抱えていこう。そのうちに誰かと共有できたり、ふいに延長線が見つかるかもしれません。

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