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人間のかけら

文・イラスト=湯浅良介

reframing
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 僕は子どもの頃、未来に向かって時間が進んでいけばいろんなことが良くなっていく、漠然とそんなふうに信じていました。テクノロジーが進化してこれまで治らなかった病気も完治するようになり、『スターウォーズ』のルークのように腕を失っても本物そっくりの義手がつけられ、今はまだ整備の行き届かない世界が抱える問題も少しずつ解決されていく。戦争にも懲りて世界は平和になっていく。そうやって技術は苦しみを和らげるために活用され、社会も人の意識も学びながら成熟していくものだと思っていました。しかしそんなに簡単ではありませんでした。苦しみのケアにも政治と経済がからみ、貧困も差別もなくならない。そしてまた戦争が起きました。
 こんなに世界が一向に良い方向に進まないのには様々な要因があるのでしょうが、簡単に言えば、自分さえ良ければ良い、という考えが人間のどこかにあるからだと僕は思っています。そして同時に、多くの人が自分のことで精一杯なほどに必死に生きているのだとも思います。

 

 SDGsが叫ばれて8年、目標の2030年まで折り返し地点となりましたが、社会全体に掲げられた新たな目標は資本主義の暴走を抑制するための旗振り役のようなものとしてある程度は有効なのだろうと理解はしながら、一個人としての実感はまだそこに乗せられずにいます。問題は人が群れを成した時、その集団のあり方と立ち振る舞い方で、目標はそのためにあるのだろうと今は解釈しています。

 

 その群れをどう捉えるかによって自分と他者の捉え方も変わり、それぞれ明け渡したくないものや守りたいものも変わっていくでしょう。カップル、家族、学校、会社、国、人間で括らずに地球上の生物、または太陽系が属する一つの銀河としての群れ、という捉え方もあるかもしれません。一個人ですら完全に統合された存在とも言い難いところがあります。僕自身の実感で言えば、体は地球由来でも意識については非人間との間に何か決定的な違いを感じています。世界と空間は渦のように時間と共に流れているとして、僕らはその中でただ呼吸をしてその流れに身をませているだけだとは思えません。思考し葛藤し、何かに抗うように生きているのが人間だと思っています。

 

 僕は普段建築の設計をしていますが、ある土地に建築を建てる時、どちらかと言えば“自然”と呼ばれるものに抗うような感覚が生じます。地面は放っておけば草が生茂り昆虫や動植物達の巣になります。災害により生じた帰還困難区域のように、人がそこから姿を消せば自ずと人工物は朽ち果て“非人間的”な何かしらに呑みこまれていきます。人間は地球上で自分たちが生きるために自然に抗いながら生きている、と人間の居場所を設計する身として感じずにはいられません。今では自然という非人間的な事象への抵抗に人間らしさすら感じています。それは自分というものを分解していった最後に残るかけらのようなもの、このかけらとしての意識を人間と捉えているからかもしれません。そして、この最後まで自身から切り離せない人間としてのかけらが厄介で愛おしい。このかけらによって世界が混沌に陥っているのだとしても。

 

 僕は、この厄介で愛おしい人間のために設計をしています。人間がいなければ地球は青々とした星として非人間の動植物が代謝を繰り返しながら太陽が爆発するその時まで生き続けるのか、人間がいることでむしろ地球上の生態系やその環境に均衡が与えられているのか、僕にはまだわかりません。でもこの地球上に人間として生まれて人間の群れの中で生きている間は、非人間的存在との間に何かしらの調停が必要だと感じています。荒れ地に建築を建てる行為はどんなに規模の小さな建物でもそこで調停が行われているように感じます。だから、設計者としての僕は、人間であることに自覚的でいたい。そして人間のかけらは時に想像力となり、他者や非人間の存在にまで思いを及ばせることも可能だと信じたい。
 混沌の中で葛藤を抱え、厄介な人間のために設計をし続ける。それが、僕がこのワークショップ(reframing)を通して自身のなかに見た望みです。

 

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